過去生という物語を超えていこう!

今回はとてもスピリチュアルな感じのトピックで、過去生を取り扱いたいと思います。
過去生をどのように扱うか、そもそもそういったものがあるか / ないかをどう捉えるかはそれぞれです。
私は普段あまり過去生について話したりしないほうだと思いますが、ちょっと書いてみます。

過去生についての私の感覚ですが、今回はこのようにお話してみるのはどうかな、と思いました。
よろしければ、一枚の紙を思い浮かべてみてください。
(A4とかB5のコピー用紙のような紙でもいいですし、もっと小さくても構いません)
そして、その紙の周りに、その上下左右を囲むような形でさらにたくさんの紙がバーッと並んでいるのを想像してみてください。
(細かなタイルが一面に並んでいる感じです)
最初に思い浮かべた真ん中にある紙が「今」(という象徴)です。
そして、その周りにあるのが過去だったり、未来だったりします。
それらはランダムだったり、一見キチンと並んでいたりするかもしれません。
中には、はっきり見えるものも、ぼんやり見えるものもあるかもしれません。
(各紙はよく見ると、立体的であったり、球体の一側面だったりするかもしれません。また、文字や動画のようなものが映っているかもしれません)
ここで、一つの紙に注目すると、ざざっとその紙がやってきて「今」の紙と接触します。
そして「今」の自分が何かを感じたり、思ったりします。

たくさんある紙の内、中には目に留まりやすい(もしくは、見ないようにすることで逆に意識している)ものもあるかもしれませんし、特に気にも留めないものもあるかもしれません。
またしょっちゅう側にやってくるものや、彼方に収まっているものもあるかもしれません。
中には本当に自分に起きたことなのか、想像なのか、人から聞いたことなのか、はっきりしないようなものもあるかもしれません。
また、先のことを考えたときに、幾つもの未来と呼べるような紙が見えるかもしれませんし、起こりうる可能性が高い紙が「今」に近づいてくるかもしれません。

そしてさらに、頻繁に思い出す(やってくる)昔のことは、次のように見ることができます。
それは何らかの理由があって、今この瞬間の自分とコネクトしている。
つまり、今の自分がこだわってしまうお話として、何度も何度も呼び寄せてしまっているともいえます。

私たちは楽しかった記憶を振り返って、美味しいキャンディーを舐めるように幾度も味わうこともできれば、苦しかったり辛かったりしたときのことを思い出して、繰り替えし傷つくこともできます。

楽しい記憶はいいのです。
けれども、辛い記憶はどうすればいいのでしょう。
それは自分が繰り返しこだわってしまうお話として、今、折り合いをつけていくのです。
今ここにいる自分がその話と折り合いをつけることができるようになると、その記憶は必要以上には近寄って来なくなります。
それはあるべき場所に、もしくは目に入らないほど遠くに行ってしまうのです。

そして過去生というものも、この紙のようなものの一つとして捉えることができると思います。
また、どのような過去生の記憶が蘇ってきたとしても、私たちは「今」に生きていますので、浮かび上がってくるものがあるとしたら、それと「今」どう関わるかです。
究極的に、それが本当に起きたことなのかどうかさえ、問題ではないといえるかもしれません。


ここで私の個人的な話をしたいと思います。
実は私にもずっとこだわってしまった過去生というものがありました。(ただこだわってしまったお話として捉えていただいても構いません)

ソレを思い出したのは、小学校の低学年のとき。
私は夜寝る前に「かあさんは魔女じゃない」(ライフ・エスパ・アナセン著)という本を母に読んでもらっていました。
内容は今ぼんやりとしていますが、お母さんが魔女だと思われて殺されてしまう少年の話です。
その話を聞きながら、私は無邪気に聞きました。
「お母さん、ヤキゴテってなぁに!?」
「こうやって熱い石をジューって押し付けられることよ」
そう言われて触れられたその瞬間、私が感じたのは「怖い」や「熱い」ではなくて「人としての尊厳を奪われ、辱めを受けた」という屈辱でした。
そして、同時に気がついたのです。
この感覚を私は知っている。
初めてではなく、他人事ではなく、コレは私に起きた!

それから私は読書感想文で「魔女狩りで殺されてしまった人たちの悲しみについて」みたいなものを、一度だけではなく書いた覚えがあります。
「なぜあのとき、あの本を母は選んでいたのかな?」とも思うのですが、私の母は今、私の「スピ友」(=「スピリチュアル・フレンド」……大体似たような精神世界の知識を持っていて、体験を含めて分かち合える人)でもあるのです。
母は結構オトコマエのところもあり、モジモジしたりする人の気持ちがあまりわからなそうだったので、小さな頃は親近感を抱けていない面もあったのですが、私が20歳位から共に精神世界をより意識するようになり、今では親子という立場としてだけではなく、色々な話をしたりしています。

話は戻りますが、そういう記憶があるからなのか(そういう話を気にしてしまう自分がいるからなのか)、私は至近距離に火がチョロチョロくる感じがずっと好きではなかったのです。
手持ち花火もちょっと苦手で、誰かのタバコが側にくるのも嫌い。
安全な場所でキャンドルや暖炉の火を眺めるのはいいのですが、ロウソクを持って歩いて祈ったりするのはムリ。
マッチはがんばって使えるようになりましたが、ライターは怖いので、必要なときにはチャッカマンを。
料理は大人になる過程でさすがに慣れましたが、それでも自分が火を扱うときには、どこかで完全にはリラックスしていなくて、昔、炒め物をしている最中に元カレが側にやってきて、ノリノリでギターを弾きながら大声で歌い始めたときには「気が散るから止めて~」となったこともあるくらい。^^

さらに、20代の頃から割とどっぷりニューエイジの世界にいた私は「スピリチュアルってすごいのよ~。キラキラキラ」みたいな人を見ると、いつも思ってしまうことがありました。
「そんなのんきな発言をしていると殺られるよ……」
人間が相いれないと感じる人に対してどれだけひどいことができてしまうかを知っている自分の一部が、瞬間的に反応してしまうのです。

また前世リーディングの話になりますが、20代初期、スピリチュアル系のワークショップのスタッフをしていたときに、日本でも結構有名な過去生を扱うセラピストたち(※私は他の方の過去生をいつでも映像として引き出してバーッと語るような専門家ではありませんが、そういったことを得意とする人たちもいます)と接することが何度もありました。
そして、スタッフもリーディングをしてもらえるような機会もあったのですが、なぜだか私の過去生にだけは触れられないことまであって、私の中に安易に触れられたくないという思いがあり、且つ向こうにも何となくそれが伝わるのを感じたりしました。

結局、このお仕事を本気で始めようと思った2009年に、ちゃんとした時間をとって、自分が薄々感じている過去生を他者目線でもしっかり見てもらうことにしたのですが(※過去生といってもたくさんあるのが普通で、そのときの状況によって出てくるものが違うこともあります)定期的に受けてきたエクトンのセッションで、今影響している過去生があるかを聞いたとき、次のような話が語られました。

さまざまな時代や異なる文化圏で聖職者やヒーラーであったこと。
ずっとずっと人間の幸福の向上というものについて考察してきたこと。
そして、赤道下の火山のある島でサイキックな治療をしているネイティブドクターであったときに、人々や長老たちにそのスキルをとても怖がられ、どんなに説明してもわかってもらえずに、焼かれたり茹でられたりの拷問の末、権威に挑むとどうなるかの見せしめのために殺されてしまったこと。

そして今、そのときの記憶が今世でヒーリングやカウンセリングを始める上で、やりたいけれど怖かったり、抵抗を感じてしまったりする部分につながっているようだということ。
さらにそれに対して、下記のような見解が述べられました。

〇 もう、そういったものには立ち向かわなくてもいいということ
〇 自分がサポートできる人たちにただ応えればいいということ
〇 失敗してしまうことよりも成功して注目されてしまうのが怖いという思いがあるようだけれど、殺されてしまうようなニーズは持っていないこと
〇 人々からの注目のオンオフ、それがやってくる道のオンオフも自分でできること
〇 これから起こる地球の大変化の時代に、ヒーラーとしての役割を果たすこともできるし、過去生の恐怖を使って自分の足を止めてしまうこともできる
〇 宇宙は完全にあなたの意志を尊重する
〇 あなたは危険にあるわけではない

こんなふうに言ってもらえたのはとても有難かったし、納得もしましたが、それでも怖かったです。
そりゃ怖いですよ~。^^
もう二度とあんな経験はしたくないし、あんな二の舞にはなりたくないという思いに加えて、もともと内向的な面もある人間が自分の顔や名前を出して(特にこの分野で)何かを始めるのはワクワクを通り越して恐怖でした。
けれども、やはりそれでもやりたいそういった恐怖を越えてまでやりたいという思いがあるのです。

結局一番有効だったのは、安全だと信じるだけではなく、信じようとするだけではなく、最初は特に慎重に動きながら、「本当に大丈夫だった!」と確かめるような実体験を、今というこの世界の中で、何度も何度も積み重ねることでした。

さらに大きかったのは、応援してくれる人(存在)たち+お客様+時代の流れもあるかもしれませんが、この仕事とは別の関わり合いの中で、私がスピリチュアル系に携わっていることを話したときに、全然怖がらずにただ「そうなんだ~」と受け入れてくれる人たちも増えたこと。
スピリチュアルな仕事をしているから好きとか嫌いを越えたところで、私を一人の人として受け入れてくれる人たちとの出会いは、とても嬉しいものでした。

さらにこだわってしまう過去生(物語)を振り返って気がついたことは、「自分のことを証明しなければいけない他者というものは、本当のところ存在しない」ということでした。
振り返るとそのときの私には、「自分が脅威の対象ではないことや、見えない世界とのつながりは誰にとっても自然であることも含めて、もっと理解されたい」という思いがあったのだと思います。
けれども他の人が何をいつどのように理解するかは、究極的に私が決めることではないのですよね。^^ 
また、たとえスピリチュアルな分野ではなかったとしても、自分の考えややることに対して、賛成な人もそうでない人も、どうでもいい人もちょっと気になる人もいるというのは自然なことです。
こういったことを踏まえると、今、特にそれを求めていない相手に、わかってもらおうとして、わかってもらおうとして、向かっていくことはしなくていいというのも改めて感じました。(さらに、あまりにもその方面に焦点を当てて向かい続けることで、逆にそういった人たちを自分の世界に招いてしまう、という悪循環が生まれる可能性があるとも見ることができます)

また、今から20年位前の話になりますが、精神世界に目が行き始めた当初の私は絶対的な真実を求めていて、自分が感じるところの真実に目覚めるようになったのですが、その後、次のようなことにも気がつきました。
世界にはたくさんの似たような人たちがいて、それぞれがそれぞれの真実と共にあるということを。
そしてその真実は、似ているものもあればそうでないものもありさまざまで、さらに「一体どちらが(相手にとっても)正しい真実であるのか」を決めようとすれば簡単に宗教戦争のようなものが始まってしまうということも……。
昔の私には「皆が絶対的な真実を共有すれば、平和な世界になるのではないか」という思いがどこかにあったと思うのですが、今は「表現というものがある(それを発する存在がいる)ならば、真実というものは全く同じでなくても構わない」とも感じますし「互いにものの見方が違っても、押し付け合ったりせずに、仲良くできればいい」とも思っています。
さらに、どうしても今それが難しそうな場合には、適切だと感じる距離を取ることを含めて検討していくことも、もともと求めていた平和につながる道の一つになると感じます。

そして、今の私が、セッションやワークショップをする上での話になりますが、私は自分自身を完全に理解されるためではなく、自分のクローンや、私の言うこと全てに頷き続けてくれる人たちを生み出すためでもなく「私の発信することが、それと出会う方たち(がそれぞれの道を行く上で)のお役に立つのならそれでいい」というスタンスを保ち続けられたらいいな、と思っています。^^

とういことで、今回はこのブログで初めて過去生について触れてみたのですが、私の個人的な体験は、もしも似たような方がいらっしゃいましたら、「私もやっているし、大丈夫そうだからお互いがんばろうよ☆」という応援になればと思います!

また、過去生に限らずですが、今、頻繁に浮上する嬉しくない昔の記憶(物語)があるとしたら、今の自分がそれと折り合いをつけるチャンス&チャレンジにしていくこともできると思います。
私は過去生セラピストとしての専門家(←それを物語のように聞きたいという人は、そういう方のところへどうぞ)ではありませんが、お悩みを伺っているとその核の部分やそれを解す鍵のようなものを感じたりしますので、ご興味のある方はセッションにお越しください。→ブルーミングツリー

志野