今回は〝障害物だと思うもの・見えるもの〟について書いてみたいと思います。
もう10年位前のことなのですが、バイロン・ケイティという女性の本を読んでいたことがありました。
彼女は長い間 “うつ” だったのですが、あるとき自分が何をどう感じるか、全ては自分の心によるものだと気が付きそこから立ち直って今では本を書いたり、講演をしたり、人々のサポートをしている人です。(ご興味のある方は調べると色々出てくると思います)
彼女の本を読んでいたある日、私は自転車に乗っていたのですが、狭い道で前に数人が横に並んでいるという状況に合いました。
そこで、「通りにくいな」という思いが出てきたので、ちょうど読んでいたバイロン・ケイティの思考のひっくり返しを実践してみることにしました。
そして
「この人とたちがいると私は通りにくい」
「私がいるとこの人たちは通りにくい(私がいると皆も思うように歩けない)」
という言葉から反対の可能性を浮かび上がらせていって
「私にとってこの人たちは邪魔ではない」
「この人たちにとって私は邪魔ではない」
そう思った途端に、スーッと私の前に道が開き、私は自然にその人たちの間を通ることになりました。
それは、たとえ偶然だったとしても魔法のような瞬間でした。
(※私はバイロン・ケイティのコースのようなものを受講したわけではないので、完全にそこに則った使い方をしたかはわかりませんし、個人的な体験を含んだ話ですが)
あの場面は大事なことを感覚的に再確認・再認識した時の一つとして、今でもはっきりと記憶にあります。
さまざまなものが行き交う形の世界にいると、思わず忘れてしまいそうになることもありますが(以前このブログで精神的な山について触れたこともありますが)障害物とは、突き詰めていくとそれを障害だと思う自分なのです。
何かを害だと思う心も、何かから自分が害だと思われるかもしれないという心も、己の中にあります。
そして、それを完全に忘れてしまい、障害物(厄介だと感じるもの)は常に外部にあると思い始めると、外部と戦うように構えだし、さらにそれを繰り返すことによって自分の周囲には敵がいるというような思考が育ち、且つ何者かと敵対するような状況も引き寄せやすい、という悪循環も生まれてくるかもしれません。
とは言ってもですが!
時にはチャレンジを感じるようなこともあるかもしれません。
人生において、どうしてもどうしても障害物としてしか思えないものに出会ってしまったとき「でもこれは障害じゃないよね!!」と強引に進んでしまうのもそれを障害物と見ていることになるかもしれませんし、かといって、ただただ全てを我慢して受け入れればいいというものではないこともあると思います。
(「虐待とか、起きていないよね!」というのも違うと思います)
ですので、対象に対して必ずしも全く働きかけない方がいいというわけではなくて、それと向き合って何らかのアプローチをするとしても、ケースバイケースで具体的に動くとしても、大切なのは「本当の意味では、それは障害ではないということを知っている」ことだと思います。
すると、場合によってはそれを思い出すだけで十分なこともあると思いますし、また「ただの悪しき憎きもの」としてではない働きかけが生まれる可能性もあると思います。
さらにセラピスト目線になりますが、特に何度も繰り返されるようなパターンがあるとしたら、自分の内を掘り下げると色々出てくるかもしれません。
そしてそういったものを溶かしていく鍵にはいつでも「愛」というものが隠れているのではないかと思うのですが、それにいつ、どのように触れるかもそれぞれのタイミングだと思いますので、時にはやはり「知っている」というのが重要なポイントになることも多いと思います。
今回は障害物だと思うもの・見えるものについて色々書いてみましたが、滞りを感じている方の参考に少しでもなりましたら幸いです。
個人的・具体的なお悩みのご相談はブルーミングツリーより承っております。
志野