「スプーン曲げの法則」ではなく、「法則とスプーン曲げ」です。
今回は結構マニアックな内容かもしれませんが、ご興味のある方はお読みください。^^
時々、身近な人に「しのちゃんて、あまり法則が好きじゃないよね~」と言われることがあります。
そうかもしれませんし、そうではないかもしれないです(笑)。
私もさまざまな法則と共に生きていないわけではありませんが、特に「これは必ず○○になります」「これをすると絶対に○○になります」というような法則や観念をあまり強くすすめたり、すすめられたりするのは好きではないほうです。
(セッションやワークショップでは折々に大切だと感じるポイントをお伝えしていますが、唯一絶対的なものとしてではありません。ですので「ご自身に響く分だけ受け取ってください・活用してください」とお話させていただいています)
というのも、このブログでも何度か触れていてこのお仕事をしている基盤にもなっているのですが、私は自分と経験する世界が深いレベルで確実に連動しているという感覚があり、もしも何らかの法則が自分に働くとしたら、ただその影響下にあるからというよりも、自分自身がどこかでそれとコミットしているから、と感じるのです。(「自己」というものをどのように捉えるかは、さまざまな見解があると思いますが「自分とは完全に切り離された全く別の何か」に勝手に支配されているように感じることはないです&法則には、この世界で生きやすいよう無意識的に同調している自然界の法則や集合意識などもあると感じています)
そして、連動の感覚ですが、時に偶然が極まったようなシンクロニシティを超えて、その背後の「意図」のようなものに触れる瞬間もあり(それがたとえ表面的には非常に嬉しくないことだとしても、深いところの自分の意識ともつながっていると感じるのですが)正気を保つのにぎりぎりのラインに立ったこともあるのですが、こういったことからも、どのような法則と共に生きるのか、それは突き詰めると本当に人それぞれだと思っています。
さらに、セッションにいらしてくださるお客様も含めてですが、他の方の選択(する法則)が自分とは異なっていても(特にそれを取り入れることによって、ご自身の幸福度がより増すのであれば)それでいいと思っています。
ところで、そもそも「法則とは何だろう」と振り返ると、それはどこかの時点で誰かが「見つけた」「発見した」と言い始めたものです。そして、何のためにそれが広められるのかというと「あると便利(だと考えられる)」からではないでしょうか。
そういう意味において、法則は生きていく上での「知恵」であるとも思いますし「これをすると○○になる」「この次は必ず○○になる」というような「順番」としても見ることができると思います。
でも、「それらは本当に絶対的なものか?」というと、必ずしもそうではない可能性もあると思うのです。
何らかの法則を絶対的なものとして決めてしまうと(それ以上そのことについて探ったり、考えたりする手間は省けますが)時にそれ以外の可能性や道が全く見えなくなってしまうこともあるかもしれません。またツールとしての法則は、便利だとは思いますが、そこからは出ることができないと信じ始めると、自分自身に制限をかけてしまったり、特定の法則の世界に自分を閉じ込めてしまったりすることもあると思います。
そのように見ていくと、自分の力を法則に預けてしまうこともできる私たちはとてもクリエイティブですし、法則を用いて何をするかも含めて法則そのものを創造しながら生きているような存在であるとも言えると思います。
かなり前の話になりますが、付き合っていた人が「スプーン曲げをしてみたい」と言ったので、一緒に試してみたことがありました。
私は最初にスプーンを持ちながら「ちょっとスプーン曲げの天使とつながってみるね」と言って軽く瞑想をしてみたのですが、特に変化がなかったので「何だ。曲がらないじゃん」と思いながらそのままパラパラ本を見ているうちに、全く力を入れていない自分の人差し指が触れているスプーンの柄の部分がじーっという感じで曲がっていきました。(自ら求めた体験でしたが、慣れていない感覚に非常に驚いて叫ぶことになりました……)
でもそれって、はっきりいって特殊能力でもないと思うのです。
また、必ずしも人格云々でもないと思います。^^
私が感じるところによると、あのときは「これを曲げるにはこのような力をこのような角度で加えないといけない」というような法則に私がコミットしていなかった。
本当に「単にそれだけだった」と言えるようにも感じます。
加えて言うならば「天使を呼ぶと曲がる」という法則をその場で作って、そのような存在を呼び込んだとも言えるかもしれません。法則が働く世界は、実はその位それに参加するものの同調もあって動くような、柔軟な世界でもあると感じます。
そして、その後興奮冷めやらぬままご飯を食べに行っているときに、彼の腕時計が止まっていることに気が付いたのですが、数日後に当面使えそうな腕時計を渡そうとしたら「必要ないよ。あの後君が曲げたスプーンに触ったら、ビリッとしてまた時計が動き出したんだよ!」と言われた記憶もあります。
それからたまにそのことを思い出すと、そもそも私はそこまでそういったことに興味を持っていなかったので(それから少しだけ関心を持って、エクトンにサイコキネシスについて聞いてみたりもしましたが)あのような経験をしたいという情熱を持っている彼と一緒ではなかったら「スプーン曲げをやろうかな」と思っただろうか……と思います。
振り返ると、あそこまで「そういうことが起きてもいい」と思いながら純粋に「それを見てみたい」と目の前で表現している人とそれまで出会ったこともなかったので、その一連の「経験の場」は、あのときの彼と私(←お互いにスプーンが絶対に曲がらないものだと信じていない)の間で共に作り出したものでもあったかな、とも思います。(無意識的だったとしても、そういう体験をしてみようとお互いを招きあったともいえるかもしれませんが)
といって「じゃあ、見せてください」とセッション等でスプーンを持ってこられても、今の私の活動は基本的にカウンセリングですので困ります。笑) &証明しようとするためだけに何かをやろうとするときには、そこには若干の疑念があるのではないかと思うのです。そして動機に「やりたい!」という純粋さがないと、何かがズレていくようにも感じます。
けれども、たとえばこのような記事をご覧になって「スプーン曲げが面白そう」という方は、そういった世界にご自身をより開いていかれることもあるかもしれないと思います。中にはスプーン曲げの法則を創り出す方も出てくるかもしれませんが、それはそれで構いません。^^
ということで、今回は法則に関して自分の頭の整理のためにも今できる範囲でまとめてみました。
そしてこのように、私自身が何らかの絶対的な法則を求めているわけではありませんので、この活動においてもそういった方向(「連動の感覚」は、どうしても言葉の世界には全てが収まりきらない感がありますので、それに関する完璧な法則を体系立てて広めていきたいとか)には今後も行くことはないと思います。
そして、上述してきたことは私の観点によるところのものでもありますので、頷かれる方もそうではない方もいらっしゃるのが自然だと思います。(※お客様も含めて、全ての方に私と完全に同じ見方をしてほしいと押し付けるつもりはありませんが、私のセッションはこのような感覚をベースにした、直観等を用いたカウンセリング……お悩みを伺いながら何が引っかかっているかや、大事なポイント、今できることなどを一緒に見ていくものになります)
また、法則と名の付くものとどのように関わっていくかも各々の自由だとは思いますが、そこから何を生み出していくかはその根底に自己や他者、世界に対する愛や思いやり、尊重があるかによって色々と変わっていくのではないかと思います。
セッションでは、いらっしゃる方のどのような方向にも向けられる創造性を意識しながら(もしもあまりにもご自身を閉じ込めているような法則や観念のようなものがあって辛いというときにはそれらとの関わりにも目を向けながら)サポートをさせていただきたいと思っています。
志野