死について①… 「元彼の犬の話」

コロナウィルスが蔓延するようになってから、「死」を以前よりも意識するようになった方もいらっしゃるかと思いますが、今回は20代の時の手記・「私が経験した(傍から見た)死について」を2つ出したいと思います。
精神世界では、「死」は本当の終焉ではなく魂は不滅なものとして捉えられることが多いのですが、肉体を持つ私たちにとって、「死」とは意識が体から完全に離れるという最大級のターニングポイントでもあると思います。
そして、そんな「死」というものを傍から見ていると、たとえそれが一見アクシデントのように見えたとしても、そこにぐっと向かっていく流れがあるのを感じるときがあります。

【(元)彼の犬の話】

アメリカのLという町には、大きな川が流れている。
そこには製紙工場があって、いつも白い煙をもくもくと空に吐き出している。
その町に行き、恋人と彼の黒い犬と一緒に川縁を散歩していたときのこと。
なぜだか突然、「この光景は、もう二度と見ることができない」と強く感じた。
それはあまりにもはっきりとした予感で、すっかり打ちのめされてしまった私は「私と彼が別れてしまうのだろうか?私はもうこうやってここに来ることはないのだろうか?」などと考えながら、「この予感は変わる可能性があるか?」と意識の海を探ってみた。
すると、その可能性は限りなくゼロに近いような気がした。
それはもう、どうしても変わることのない・変えられない未来、という感じだった。
仕方がないので、私はもう二度とないこの瞬間をしっかりと目に焼き付けることにした。
自分ではどうすることもできない何かの大きな流れを前に、ただ私は立ち尽くして見つめることしかできなかった。
川縁に立つ、彼と黒い犬を。
本当に何もすることができなかったけれど、今でも思い出すことができる。
目に映る全てを見逃さないように、自分の手を固く握りしめたこと。
きっと、そうしなければ全てがおぼろげな記憶の彼方に薄れてしまうことになったあの瞬間を。
そして、私たちがその町に一緒に行ったのは、本当にあのときが最後になってしまった……。


アメリカ人の彼は、私が日本にいると写真を添付したメールを時々送ってくれるのだけれど、ある日届いたメールを開いてみると年老いた彼の真っ黒な犬が庭で寝そべっている姿が映っていた。
そして、その犬に被さるように写真を撮っている彼の影が映っていて、それを見た瞬間、私の頭の中に「murder(人殺し)」という言葉がぽんと浮かんだ。
何の感情も伴わない、一つの単語として。
それから私は「なんという言葉を思い浮かべてしまったのだろう」と少し反省をして、そのことを忘れた。

そして次の日、都内の植物園を散策しているときに、私は突然自分が何かあたたかなもの(エネルギー)に包まれるのを感じた。
それはとてもやわらかな大きな何か……動物の意識のかたまりのようなもの……。

そしてさらに次の日(時差もあって曖昧な記憶だが)、彼が私に泣きながら電話をしてきて「なんてことだ。僕は自分の犬を車ではねてしまった」と言った……。
山を歩くのが好きな彼は、家から少し離れたところに山の一角を所有しており、そこに犬と出掛けた際は、途中で愛犬を放して車を止める所までのろのろと車を走らせるのが常だった。

そして、その際に事故が起きた。

最愛のペットを自分ではねてしまったことに彼はとても大きな衝撃を受けていて、そのとき私はなんて慰めの言葉をかけたかも覚えていない。
けれども、それは起きてしまった。
きっと、たくさんのことが重なってそれは起きたのだ。
おそらく彼と彼の犬の魂は、事故を起こす前から共にそこに向かって進んでいた……。


彼の犬が亡くなってしまってからしばらく経った後、たしかあれはハロウィンの近くだったと思う。
仕事のために、彼は東京に来ていた。
何かを失ってしまっても、人は前に進まなければいけない。
そんな日々の中、休日に私たちは気分転換も兼ねて遊園地へと出掛けた。
そして、楽しい時間を過ごしてみても、私たちの奥のどこかでは彼の犬の死が響いていた。

彼の滞在先であるマンションに戻ったその日の夜、私は遊園地で買った風船を窓辺にぶら下げながら亡くなってしまった犬に真剣に話しかけてみた。
「もしも私の声が届くのならば、この風船を揺らすなりなんなりしてほしい」と。
けれども風船は糸をぴんと張って動かずにいたので、私は犬とのコンタクトをすっかりあきらめてしまった。

そして次の朝、彼が「あの部屋の窓を見て!」と私に言った。
そこに……、あったはずの風船がなくなっていた。
風船は、夜のうちに飛んでいってしまったみたいだった。
もちろんそれを偶然として見ることもできるけれど、「サヨナラ」と言われた気がした。

志野

死について② 「フィンドホーン創設者、アイリーンの死」