“悟り” について考えるところがあって、2011年のエクトンの個人セッションで聞いたことをシェアしたいと思います。
(訳は私です。エクトンについては、こちらをご覧ください → エクトンと、その個人セッションについて)
— Shino —
悟りについて伺いたいです。
私の知人が悟りを体験した人を調べていて、その人たちは、悟りとは物質世界を超えて個人が存在しないと知るということを言っているようです。
そして私は「深い部分で、この世界において個人として存在する意味がないならば、ほかの人が良い人生を送る手伝いをする意味もないかもしれない」と思いました。
それから私はそのことについて随分考えていて、あなた(エクトン)のセミナーの録音を聞いているときに、ふと「言葉の世界を超えたら、個人がいるのとないのは同じことかもしれない」と思いました。
そして「大切なのは、言葉の表現や悟りの理論ではなく、愛を表現することと互いを尊重し合うことだ」と思いました。
あなたはどう思いますか?
このことについてのあなた(エクトン)の意見はどのようなものでしょう?
— エクトン —
私もあなたと同じ意見です。
悟りは扱いにくい(トリッキーな)問題です。
それは奇妙なものです。いいですね?
基本的に、あなたが話をした人で、物質や物質世界から自分を隔てる必要があると言っている人がいたら、それは信念体系です。
それがすべてです。
それは信念体系です。
それはある人々が信じている方法です。
そしてあなたが理解しているように、神(God)へ至る道はたくさんあります。いいですね?
ある人々は神への道を見つけるために世間から離れて仏教の僧院に入ります。
ほかの人々は人生に足を踏み入れます。
彼らは人生(life)から離れることなく、個人的な進化や悟りの感覚を得るために人生に入り込むのです。
それが洞窟に身を潜めて瞑想する仏教徒とマザーテレサの違いです。
二つの道とも適しています。
けれども各々が、何が一番自分にとって適しているかを決める必要があります。
私とやり取りしようとやってくる人たちは、大抵は愛について学びたかったり、どのように愛を経験するかについて学びたかったり、充実した豊かな人生を望んでいます。
洞窟に篭り、悟りについての抽象的な概念のもと瞑想することを欲する人々は、あまり私のところにはやってきません。
もちろん、私はやってくる人がどんな人であっても話をしますが、私の感じるところでは、悟りについて焦点を当てすぎる人々は世界が提供するたくさんのものを逃してしまいます。
彼らはこの惑星の移り変わりや進化に影響する機会を持つことを逃します。
それが “人生に参加する人” と “人生を観察する人” の大まかな違いです。
悟りの概念に集中する人たちは概して “観察者” です。
それは何も悪くありません。
人生経験の豊かさに焦点を当てる人々は “参加者” です。
ひとつの道がほかの道よりも優れているということはありません。
それはただ異なるというだけです。
そしてあなたの道は、大まかに言って、この時点において参加者です。
あなたは人々が良い人生を送ることを手伝いたいと思っています。
あなたは良い人生を生きたいと望んでいます。
あなたは人生から引き下がりたいとは望んでいません。
あなたは人生から逃げることを望んでいません。
あなたは人生から浮かび去りたいとは思っていません。
あなたは惑星の上に漂って、蟻のような人間がすることを見下ろしたいとは思っていません。
あなたは参加したいのです。
もちろん、時に逃げたいと思うこともあるでしょう。
もちろん、休みが必要なときも、ただ自分の中に入って逃げたいというときもあるでしょう。
それはまったく構いません。
けれども、あなたはいつも戻ってきます。
あなたはいつも参加に戻ってきます。
なぜなら、それがあなたの人生の目的であり、人生のこの時点におけるあなたの個人的な進化の目的だからです。
— Shino — “観察する人” と “参加する人” は、深い意味において同じなのでしょうか?
— エクトン —
可能な限り神の最も壮大な特質を経験したいという深い欲求において、同じ目的地への異なる道があるということです。
— Shino — はい。
— エクトン —
一方がほかの道より良いということはありません。
そして再びになりますが、時に人生の中で転換や変化があります。
一年間洞窟の中で蝋燭の炎のもと瞑想をしたいという人を例に話しましょう。
彼らは一年間全てから逃げ出したいと望み、一年間瞑想することを望みます。
彼らはいずれ社会の文化の中に戻ってくることを必要とします。
たとえ、食べること……ただ口の中に食べ物を入れることであったとしても、彼らは何らかの形で参加をしなければならないのです。
そして私がお話したように、もしもあなたが完全な参加者であったとしてもあなたは時々休息を必要としますし、絶対的で完全な参加の道も、絶対的で完全な観察の道もないのです。
それらはいつでも交ざりあい、溶け合っています。
— Shino — はい。
— エクトン —
そうでなければなりません。
わかりましたか?
— Shino — わかりました。
— エクトン —
いいでしょう。
しかし再びになりますが、一方がほかよりも良いということはないのです。
ただ違いがあるということです。
— Shino — はい。
— エクトン — ほかには?
— Shino — ありがとう。
ということでした。
私個人としては、今、それほど悟りという言葉にフォーカスして過ごしてはいないのですが、その言葉の定義も経験もそれぞれであっていいのではないかと思っています。
Ecton Portal エクトン ポータル に、ご紹介いただきました
(最終更新日:2025-08-25)