「差別意識」について

今回は「差別意識」というものに触れてみたいと思います。
「差別意識」は意外と日常の中にも潜んでいて、さらにそこからさまざまな問題が生み出されることがあるのですが、私がこういったことに目を向けるようになったのは、恐らく小学校時代に遡ります。

私はちょうどバブル時代の小学生だったのですが、とにかく値段の高いものに価値が置かれたりする(売れない際には、値を上げる程売れることもあったという)ような中、大人社会の空気感が子供たちの間にも流れていました。

そして、高学年にもなると子供同士でもブランド物を身に着けて競うことがあり、新しい服を着ていくと「それどこの服?」と聞かれて「量販店」とでも答えると、「え~?デパートで買えないの?」と言われたり、「ダサい」と笑われたりすることまであるのでした。

うちの両親は当時の世の中の浮ついた感じには全然乗らない人たちで、ブランドブームも特に気にかけないようなタイプだったのですが、私は自分の服について色々言われるのが辛いと感じながらも、そんなときには何となく笑ってごまかしつつ「嫌だな~」と思っていました。

一度「私も他の子みたいにデパートで服を買って欲しいなぁ」と母に言ってみたこともあったのですが(ただ、私も親の方針を漠然と知っていたのと、当時は誰に対しても自分のことを表現するのがそれほど得意ではなかったので、うまく伝えられた感もなく……)「堂々としていれば大丈夫だから!」と送り出されてしまいました。
……これはある意味とても正論で、今私がお伝えしていることも要約すると結局は同じなのですが、その一言だけだとあまりにも大人の意見過ぎて、「堂々とするにはどうすればいいか?」「なぜ私は堂々としていていいのか?」がよくわかりませんでした……。だから私はその後も模索し続けて精神世界の扉まで開き、今このようなお仕事をしているのかもしれませんが。

(私は両親から「常に皆と同じでなければいけないよ」というようなプレッシャーをかけられないことに救われたこともたくさんありましたが、その一方、彼らにはなくて、私だけが感じた葛藤のようなものを乗り越える術は自分で見つけなければいけませんでした。 “親からもらえなかったり、もっと欲しかったりしたもの” は多かれ少なかれ誰にでもあるのではないかと思いますが、それは自分で探したり、他からの協力をもらって自分にあげたり、大切なこととして社会に発信して昇華させていったりするのも一つの道だと思います)

振り返ると、そういったことが起きていたのはそれほど長い期間ではなかったと思いますし、いじめというよりも、女の子同士のちょっとした意地悪という感じだったのかもしれませんが(と思いたいのかもしれませんが)、そしてとても幸いなことに、今でも付き合いのある親友が彗星のように転校してきてくれたことで風向きも変わり、辛かった時期は終わったのですが……。

でも、覚えているのは……、新しい服を着ていく前夜に「また何か言われるの、嫌だな~」と眠れなかったこと。
「お願いだから私のこと見ないで~」と密かに願ったこと。
あのとき、堂々と顔を上げることができなかった私は、何かに特別な価値を付けて他と切り分けていく残酷さについて身を持って知りました。自分が普通にしているだけで笑われたり、マイノリティとして差別されてしまったりする理不尽さや恐怖についても。

そして、当時の大人社会の影響を受けていたクラスメートに個人的な思いを持ち続けてきたわけではないのですが、そういうことが起きるときの心理や要因というものに興味・関心を抱くようになりました。

何かや誰かの美しさや才能にハッとしたり、それに浸ったりするのは気持ちがいいものですし、幸せなことだと思います。
けれどもそれに、外部から人為的に「これは誰にとっても、あなたにとっても、他の何と比べても、とにかくよりすごいものですからね!」という絶対的に特別な価値を付けようとすると、ヒエラルキーの芽が生まれます。
そして、そういうものがある / ないでしか価値を測ることができなくなると、差別意識が蔓延すると共に、特別な価値を作ったり、それを付け加えようと躍起になったりする人たちも出てきます。(人為的に作られる価値は、比較の対象としての “下位” を必要とします。これは人種差別のようにはっきりとしたものとして、または日常生活の中でさりげなく、そして「スピリチュアルという言葉」が用いられるような場においても見られることがあります)

今、完全に大人になった私は、面と向かって昔のように言われたりすることはまずありません。
なぜかというと、そういったときには「関係ないよね!」と怒ることができるからです。(必要なときにはきちんと自己主張ができる自分を育てていくと、何も言わなそうな相手を探してイライラをぶつけようとする人たちと出会うことも少なくなります)
そしてまた、その相手と関わるかどうかを決めることもできます。

あの当時は残念なことに、相手に言い返そうとすら思いませんでした。(加えて、この世界にいる不確かさを感じながら「私は皆と感覚が違う気もするし、変な子なのかもしれない……」と思っていたので、言われるがままでした)
そして、私がそういう体験から唯一学べたことは、外見や持ち物で人の価値を測らないということでした。(ブランド品に関しては、大学生のときにアルバイトをしたお金でルイ・ヴィトンのバッグを購入してしばらく使ってみた後で、「有名な名前が付いていてもいなくても自分は惹かれるもの選ぼう」と改めて思いました)
また、学歴や会社名、肩書き等のようなものにもやみくもには価値を置かなくなったのですが、そうするとどんな人とでも普通に(人として敬意をもって)話ができるようになりました。

さらにですが、そういうものを超えたところで人を見てみようとすると、そういったものに盲目的に価値を置こうとする人は実は自分に自信がなかったり、怖がっていたりすることが多い、ということにも気がつきました。(そして、昔の私の経験のように、意地悪をする人とされてしまう人は、深いところでの「自己肯定感の低さ」によって引き合い続けてしまうケースが非常に多いのです)
また、他者との比較で自分の価値を見出そうとする人は、ありのままの自分の存在としての輝きを知らずに、本当は自分に価値がないのではないかと不安だったりするから、そのガードを超えたところまできちんと自分を見ようとしてくれる人を求めていることもあるのだ、ということも。

そして、こういったことに目を向けるようになった今の私は、(親しみを感じる度合の差はあっても)「接するのがとにかく怖くてたまらない」というような人は殆どいないのですが、それでも今でも誰かが誰かのことを見下したり、バカにして笑ったりすると少し傷つきます。そういう態度を取ってしまう人にも色々な背景があるのを知った今も、人の存在が軽く扱われることに、この胸は痛むのです。(たとえそれを自分の傷跡が疼くという目で見たとしても、全く何も感じないようにはならなくてもいいと思います)

私はこのお仕事を通して、全ての人が本当に大切な存在であることを発信し続けられたらいいな、と思います。
何かとの比較で自分の価値を測ろうと躍起になることもない、健全な自己肯定感を持った人が増えるほど、この社会から差別やいじめや意地悪が減っていくと思います。

そして、あの夜眠れなくなってしまった小さな私みたいな子(供の心を持っている人)や、そういう子とお互いに自信のない部分で引き合ってしまう、意地悪をしてしまう子(供の心を持っている人)に対しても、存在としての輝きを思い出すお手伝いができればと思います。

これを読んでくださった方で、今困っていることがあればセッションやワークショップにお越しください。また、実際にいらっしゃることができなくても、このような記事が少しでもお役に立ちましたら幸いです。

志野