皆とつながっているけれど一人でもあるのだ、という話(カフェでの気づき)

私は散漫な気持ちになると、よく外の景色が見えるカフェのようなところにお茶をしに行ったりするのですが、そうすると思い出すことがあります。

25歳くらいのときに、アメリカの片田舎のスターバックスで遠くの山々を眺めながら一人でお茶をしたときの気持ちを。

当時私にはアメリカ人の恋人がいて彼の家にしばらく滞在していたのですが、その間、彼が仕事でイギリスに行ってしまって全くの一人で過ごした約10日間がありました。
そのとき彼が住んでいた小さな町は、彼がそこの出身ではなく且つ何年も住んでいた別の場所から引っ越してきてわりとすぐだったので、知り合いも殆どおらず、残された私はどこにでもぺったりとついてくる犬と二人ぼっち。

その頃は今よりネットもSNSも発達していなかったので、せっかくだから日本の親しい人たちにも連絡をしないで完全に一人きりの時間を過ごしてみようと思ったのですが、誰も知らない町で犬の散歩をしていたりすると、何だか違う惑星からやってきてその町の住人の振りをしているような気持ちになりました(笑)。
そして、とにかく時間がたくさんあったので英語の勉強をしたり、庭にあったさくらんぼの木に梯子を立てかけて採ったアメリカンチェリーでジャムを作ってみたり、だんだんと暇になって自転車で麦畑を見に行ったり……。

そんな中、その町のショッピングモールにあったスターバックスでお茶をしたときに、遠くの山々を見上げながら「パートナーや家族や友達がいても、愛し合っていても、一人の人間として私の人生を完全に体験できるのは私しかいないんだ!!」とはっきり感じました。
思い返すと、あれは“精神的な意味での自立の時間”でもあったなぁ、と思います。
遠くにいる恋人や親しい人たちを思い出しながら異国で暮し(?)つつ、本当にたった一人の自分というものを感じた瞬間、今でもあのときを思い出すと、むやみに他人の動向を気にしたりせずに自分のペースやスタンスを保つことができます。

どれだけたくさんの人に囲まれていても
どれだけたくさんの人と心地よい交流をしていても
どれだけたくさんの人と瞬時にコミュニケーションをすることができるようになっても
一分一秒自分と一緒にいられる人はいない。
一度何らかの形で徹底的にそのことを知ると「とにかくいつでも周りと同じようにしていた方がいい」というような思いはかなり薄くなると思います。

また、違う文化圏に出てみたりすると実感しやすいかもしれませんが、私たちが思う「普通」や「当たり前のこと」は、実は限られた枠の中で起きていることが多々あります。
もしかすると「今、自分は多くの人と同じように○○していない……」等という後ろめたさを感じている方もいらっしゃるかもしれませんが、恐らく「その多くの人」は、大きな目で見れば地球上の○パーセントにも満たないことが殆どです。^^
さらに、特定のグループや集団も実は確固たるものとしては固定されておらず、どんどん変わっていきます。
どこかの場所での「当たり前」も時代によって変化していきますし、絶対的なものとは限らないのです。

そしてまた、自分の行く手にたくさんの人がいそうなときも、あまりいなかったり、今はまだ殆どいないように見えたりするときもあるかもしれませんが、何を選んでもそれなりに色々なことが起こるならば、やはり自分が一番うなずける道を選択していけばいいと思うのです。

アメリカの話に戻りますが、あの数日間、最初は違う世界からやってきてその町の時間に紛れ込んでいる感じだった私にも次第に小さな交流が生まれて、朝犬の散歩をしているときに前庭に水をまいてるおじさんが「おはよう」と挨拶してくれることや、買い物をしたときに店員さんとちょっとやり取りすることさえ、何だか嬉しかったのも覚えています。
ある日は玄関のチャイムが鳴ったので出てみたら小包が置いてあって、家の前に止まったトラックの中で洋画に出てきそうないかついお兄さんが私に「届けたよ!」という感じで親指を立てていて、こちらは反射的にぺこっとお辞儀をしてしまうというような異文化交流も。^^

恋人が遅くに帰ってくる最終日は、目抜き通りにあるカフェバーみたいなところに出かけて夕飯を食べていたら、「どこから来ているの?」と話しかけてくれた地元の大学生と盛り上がって(久しぶりに“人間”としっかり話せて楽しかったのです)「今日は恋人が帰ってくるんでしょ。そろそろ戻って家で待っていた方がいいんじゃない?」とまで言われてしまう始末でした(笑)。

そして、太平洋を行ったり来たりしていた当時の私は、その恋人との関係が本質的に長くは続かないものであることを実は初めから直観的に知っていました……。
遠くない先のエンディングを感じているからこそ、目に映る景色をいつでも焼き付けておこうとどこかで必死だったのですが(そしてまた、楽しいと感じる瞬間もたくさんありましたし、叶わないとはわかっていても、あの土地で年を重ねていきたいと願っていた自分もいたのです)彼と別れてから随分経った今、もうこの世にはいない犬と一緒に過ごしたあの時間や、あの町で見たり触れたりしたものたちは、幻だったのでも、完全に消滅してしまったわけでもなくこの胸にあると感じます。

さらにあの日々を思い出すと、どんなところでもやはり自分は一人であって、且つ皆とつながっているんだな、そして、どこからでもまた何かを始められるのだ、というような気持ちになるのですが、たくさんの人の中にいるときも、色々な人や存在が応援や導きをくれるときにも、目の前に広がるさまざまな可能性から次の一手を選び取ることができるのは、その決断をすることができるのは自分一人というのは、恐らく寂しすぎることではなく、条件は皆一緒です。

そして、一人とは言っても私たちは決して切り離された存在ではなく、互いに協力し合って何かをすることも、困っているときには助け合うこともできます。さらに、違うからこそ、それぞれの知恵や得意なことを分かち合うこともできますし、また、自分にはない誰かの輝きや才能に刺激されたり、元気をもらったりすることもたくさんあります☆

今回はあの時、あの場所で一人味わったことをシェアしてみようかな、と思って書いてみました。^^

志野