ラスベガス

今回も、以前書き溜めていたものの中から個人的な話を1つ載せてみようと思いました。昔の恋愛や、別れに触れる話です。今はカップルカウンセリングや、「恋愛・パートナーシップ」のワークショップも行っていますが、個人的に私も色々経験しています。もう随分前のもので、この後もさらに色々なことがありましたが、基本的に考えていることはあまり変わっていないかな、と思います。^^

(※こちらの記事をUPした後にラスベガスで事件が起きてしまい、結果的に集合意識に同調したようなタイミングになってしまいましたが……、消してしまうのも何なのでこのままにしておこうと思います)



ラスベガスは私にとって少し特別な街だ。

二十歳を目前にして、それまで付き合っていた人と別れてしまったとき

三ヶ月くらい、朝から夜までずっと泣いていた。

もう涙なんて親には全く見せない年になっていたのに

それどころではなくて

外に出るとうまく歩けなかったから

全てをストップした。

そんな私に母がたくさんのビデオ(映画)を借りてきてくれた。

日中それらを観ているときだけ、少しだけ気がそれるから。

それでもたくさんの映画を観ながら悲しい話で泣き、ラブシーンでも彼を思い出して泣いた。

そんな中で観た「リービング・ラスベガス」

人生に絶望したニコラス・ケイジ主演の男性が

ラスベガスでお酒を飲み続ける映画

その全く希望のない世界が、そのときの自分にすごく共鳴した。

そして後からこの映画の原作者が自殺してしまったと知ったときに

私はそのときどこかで思っていた「この世からいなくなってしまいたい」という気持ちを

一緒に委ねてしまおうと思った。

手放したのはボーイフレンドとしての彼だけじゃない

この地上に永遠に変わらない形があることを

とても単純に躊躇いなく信じていた私

そんな私の小さな世界観をこの映画と共に葬ったのだと思う。

それからニ年半が過ぎて大学卒業のとき、友人たちに旅行に誘われた。

私はそれまでアメリカに興味がなかったのだけれど、行き先はそのときの話の流れから

ラスベガスとロサンゼルスに決まった。

初めて足を踏み入れたアメリカはとにかく巨大な感じがして

本場のラスベガスはファッションホテルとパチンコ屋さんが並んでいるような、大人の遊園地みたいだった。

そこで、砂漠をジープで駆け回るツアーのパンフレットを見た。

「面白そうだな」と思って、少し心が動いたのだけれど

友人たちは興味がなさそうだったので、それはそのままに。

ビュッフェに行ったり、ショーを見たり、グランドキャニオンやショッピングモールに行って

観光客らしく遊んだ。

そしてさらに数年後

私は砂漠の中を、恋人が運転する四駆に乗りラスベガスに向かって走っていた。

何時間走っても辺りは殆ど同じ景色。

夜になって車を停めて外に出てみると、空には数えきれないくらいの星たちが瞬いていた。

そして、闇の中に突然現れるきらびやかな街、ラスベガス。

今回もまた旅行客として訪れたけれど

一般車の中から見るその街に、以前訪れたときよりも親しみを感じた。

二度目になるこの街はやっぱり胡散臭くて、休暇中の人たちがたくさんいて

アメリカのいいところも悪いところも極端に詰め込んでいるようだった。

そして、正確にいうと私たちはラスベガスではなくその近郊に用があったのだけれど

その帰りに再び寄ったラスベガスで

イタリアのベニスを模して作られたホテルベネチアンのゴンドラに乗った。

以前そこで花嫁・花婿さんが一緒にゴンドラに乗っているのを見て羨ましかったのだ。

けれども、列に並びようやくゴンドラに乗り込んで出発したら

恋人がゴンドラを漕いでくれているお兄さんに

ホテルと共に作られたこの運河の構造について何やら長くなりそうな質問を始めた。

それを聞いた私には

「作り物ということはわかっているのだから、美しくライトアップされたこの雰囲気をもっと楽しみましょうよ」

という思いがこみ上げてきて

「It’s not so romantic !」と思わず言ってしまった 。(←そんな私も全くロマンチックじゃなかった!^^)

そうしたら相乗りしていた、アメリカ人夫婦(多分)のおじさんに

「男っていうものはね、そういうものなんだよ」という感じでまとめられてしまい、皆で笑った。(←後から振り返ると、当時のアメリカのジェンダー……!?)

そして、今はその恋人とも別れて

日本のレンタルDVD屋さんで時折「リービング・ラスベガス」のタイトルを目にする私がいる。

強烈過ぎて一回しか見ていないし、細かい内容は覚えていないけれど

この映画を見ながら泣きに泣いた過去は、遠い遠い記憶の中にある。

ラスベガス。

この先はわからない。

また行くかもしれない。

いつか、すごく愛しい魂とともにそこにいて

「人生は色々だなあ」とつぶやいている自分がいるかもしれない。

そのとき隣にいるのは既に知っている人かもしれないし

まだ出会ってもいない誰かかもしれない。

今だって行こうと思えば、すぐにでも行ける。

そしてラスベガス自体もどんどん変化していくのだろう。

生きるってそういうことだ。

色々変わっていく。

でも続いていく。

そして

今の私はもう知ってしまっている。

たとえ誰もいない砂漠で二人きりになって濃密な時間を過ごしたとしても

人は離れるときには離れてしまうということを。

どんな別れの後にも

深い部分ではずっとつながっている、と感じる時は必ずくるけれど

本当は何も失うことなどできないのだ、と思う日も必ずくるけれど

それでも

人間として生きる限り永遠に同じままではいられないことを。

だから大切にしたいと思う。

今という瞬間を。

今見ている景色を。

パートナーに限らず、今一緒にいられる人たちを。

今という瞬間は、目を逸らしたらすぐにこぼれおちていってしまう。

当たり前だけれど、決定的なことがない限り、忘れてしまいがちだけれど

一瞬前にはもう二度と戻ることはできない。

そんな今という重なり合う時を、心から大切にし合える人たちといたい。

前よりももっとずっとそう思う。

そして、それができたとしても

人生は変化し、続いていく。

出会った人とは、たとえ天国にいるような関係を築けたとしても

いつかは必ず肉体的な別れの瞬間がやってくる。

この世界の中で、形あるものとして、変化は自然の摂理の一部だ。

そのことはもうわかっている。

それでいいのだ。

だから形を失うことを恐れて小さくならないように、今を大切にしながら

今という瞬間に永遠を感じながら

目の前にいる人とは些細なことで笑い合いながら

世界の輝きや不思議さに目を向けながら

変わりゆく人生を味わいつくしたい。

そんなふうに思う。

どんなに近づいても他の誰かを思い通りに動かし続けることなんてできないし、その必要もない。

そして、どんなに離れても本当の意味で手放すこともない。

私たちは個々人で、皆つながっているから。

だから、今できるのは個性ある自分を大事にすること。

同じように個性ある他者を大事にすること。

大事にするとはどういうことか

互いを尊重するとはどういうことか

それはきっと時と場合によって違うから

たくさんの方法や答えがあるだろう。

だからきっと私はこれからもそれを問い続ける。